ゼスプリの歩み

ゼスプリの歩み 1904年ニュージーランド北島の西海岸にあるワンガヌイ女子高校の校長イザベル・フレイザーが、中国の揚子江の畔にあるキリスト教伝道所から、「ヤンタオ」という果物の種子をニュージーランドに持ち帰りました。その種子を果樹栽培業者のトーマス・アリソンに与え、トーマスは弟のアレクサンダーに与えました。同じ年、中国政府はその種子をアメリカに送りました。カリフォルニア州チーコの農務省の試験圃場で行われた生産試験はトラブルが続いていました。栽培には雄株と雌株が必要だったにもかかわらず、試験に供されたのはほとんどが雄株だったのです。それにより、アメリカでの試験栽培は頓挫してしまいました。 メアリー・イザベル・フレイザー1863年、ニュージーランド南島のオタゴ半島の港町・ダニディンで誕生しました。のちに、マーガレット・ヘレン(ネリー)とケイティという2人の妹が生まれ、3姉妹の長女として成長。当時、オタゴ周辺はゴールド・ラッシュで活気にあふれていました。17歳のイザベルは、シークリフ モデル カントリー スクールで教師になるための教育課程を修了し、1888年にはオタゴで文学史号を取得、1年後には優秀な成績で文学修士号も取得しました。1890年、オタゴ女子高校の英語教師となり、3年後にはワンガヌイ女子高校の校長に就任。女子教育の熱心な推進者で、女子生徒たちに家計を切り盛りすることや、料理、応急手当、洋裁などの新しいクラスを導入。イザベルによって、ワンガヌイ女子高校は優れた教育機関として評価を確立し、1898年にはニュージーランド最大の全寮制女子高校となりました。一方で、男性だけで構成される理事会とは困難な戦いを強いられました。わずか300ポンドの年俸にも関わらず、学校運営と日常的な業務を担当するだけでなく、授業も担当していました。長時間の勤務に疲れ果てたイザベルは休暇をもらい、1903年6月、日本にいた妹ケイティに会うために来日しました。1カ月後、イザベルとケイティは、中国の上海から揚子江を約1600kmさかのぼった宜昌(イーチャン)の伝道所へ向かいました。日本と中国で休暇を終えたイザベルは、1904年1月、帰国の際に現在のキウイフルーツの元となる種子を持ち帰ったのです。ワンガヌイ女子高校に復職し、6年後に辞職。1910年には、ニュージーランド北島のホーク湾に面したところで、アイオナ高校を設立。女子教育が珍しく、見通しもない時代に、女子教育の教師として働き始めた非凡な女性でした。 1910年ニュージーランド初のキウイフルーツとなる、「チャイニーズ・グーズベリー」と呼ばれるスグリの一種が、ワンガヌイの南部にあるアレクサンダー・アリソンの所有地で実ったという記録が残されています。
1920年ダンカン・アンド・デイビーズ、ブルーノ・ジャスト、ホートンズ・オブ・ヘイスティングス、フランク・メイソン、ヘイワード・ライトといった多くの種苗生産業者から、チャイニーズ グーズベリーの苗木が販売されました。ニュージーランド北島のオークランド、フィールディング、ワンガヌイ、タウランガなどで栽培が始まりました。 1924年オークランドの種苗生産業者であるヘイワード・ライトが、グリーンの果肉のチャイニーズ・グーズベリーを開発。これが現在、最も一般的に栽培されているキウイフルーツです。ヘイワードの功績をたたえ、彼の名前を冠した「ヘイワード・キウイフルーツ」の名で呼ばれるようになりました。 ヘイワード・ライト 店頭に並ぶグリーンキウイ「ヘイワード・キウイフルーツ」の名前の由来となった人物です。並外れた才能を持つ種苗生産業者で、新しい種苗の将来性を評価する能力に長けていました。種苗生産場を所有していて、財務や営業よりも、種苗の研究開発にほとんどの時間を費やしていました。最大の成功例となったヘイワード・キウイフルーツをはじめ、ゴールドマイン・ネクタリンやパラコン・ピーチの種苗開発など、ニュージーランドの果樹栽培産業に大きく貢献しました。 1934年ジム・マクローリンがニュージーランド北島のプレンティ湾地方にある所有地で、初めてチャイニーズ・グーズベリーを栽培しました。 ジム・マクローリン キウイフルーツを最初に販売した栽培業者で、輸出業者でもあり、「キウイフルーツ産業の父」と呼ばれている人物です。キウイフルーツ産業への貢献と、キウイフルーツ輸出開拓の実績に対し、大英帝国勲章の1つであるMBE(Members of the Order of the British Empire)が授与されました。恐慌の時代に、ロトルアの北隣テプケに住む叔母を訪ね、そこで果樹園の仕事をしないかと誘われたのが運命を決めました。1937年、ジムは「馬の放牧場」として知られていた地域の半分に、チャイニーズ・グーズベリーを植え付けました。これが商用栽培の始まりだったと考えられています。第二次世界大戦の時には、さまざまな苦労があったようですが、それでも500~600箱のキウイフルーツを販売、ニュージーランドにいたアメリカ軍人の間で人気のある果物になりました。市場の拡大には輸出が必要だと考え、ニュージーランドフルーツ連盟に訴えかけ、海外向けの果実出荷と販売を取り扱うことの同意を得ました。こうして、ニュージーランドから初のチャイニーズ・グーズベリーの輸出が実現したのです。 1952年ジム・マクローリンとグラハム・ベイリスが、初めてイギリスへ13トンのチャイニーズ・グーズベリーを輸出しました。 1959年オークランドに本社を置く果実卸売会社「ターナーズ・アンド・グロワーズ社」が、このチャイニーズ・グーズベリーの果実を「メロネッテ」と名付け、カリフォルニア州サンフランシスコのジール社に送りました。しかし当時は、メロンとベリーに高い輸入関税が課せられていたことを知り、メロンを連想させる「メロネッテ」を変更。柔毛状の皮を持った果実がニュージーランドの国鳥であるキウイに似ていることから、親しみやすい「キウイフルーツ」という名前になりました。 1962年フリーダ社のフリーダ・キャプランとオッペンハイマーグループが、アメリカとカナダでキウイフルーツ市場を開拓。 1970年アメリカ・カリフォルニアで初めてキウイフルーツの収穫に成功。キウイフルーツはフランス料理のヌーベルキュイジーヌの高級食材として世界的な人気を博しました。 1977年ロリー・アープを初代委員長とするニュージーランド・キウイフルーツ・マーケティング・ライセンシング委員会を設立。1980年代後半には、輸出業者が増え、価格競争に陥ったことから、生産者は輸出窓口の一本化を計画。1988年に生産者の収入安定を目指した運営・マーケティング組織である、ニュージーランド・キウイフルーツ・マーケティングボード(NZKBM)を設立。このころから新品種の開発も積極的に行われるようになりました。 1991年新しい品種の嗜好試験を実施。当時「ホート16A」と呼ばれていたゴールドキウイは、テプケにあるホートリサーチ園芸研究所内で育種されました。その味覚と新鮮な黄色が独特であったため、さらなる試験が継続されることになりました。 1992年バイオグロ・ニュージーランド認定の有機栽培キウイフルーツが、NZKMBによって初めて輸出されました。1994年には、有機栽培キウイフルーツ専用のパックハウスを建設。日本では、ニュージーランド・キウイフルーツ・マーケティングボード(ジャパン)リミテッドとして事務所を開設しました。 1997年NZKMBはニュージーランドのキウイフルーツにブランドネームとして「ゼスプリ」という名前をつけました。「鮮やかで、元気で、健康的で、栄養分が高く、活気があり、風味がよく、喜びとエネルギーにあふれている」というキウイフルーツのイメージを、情熱をあらわすzestと、精神をあらわすspiritを組み合わせた「ゼスプリ」という造語で表現しました。 1999年ゼスプリ インターナショナルは、トロピカルな甘さの黄色い果肉を持つゼスプリ・ゴールドキウイの品種を世界中に紹介。グリーンの果肉を持つヘイワード・キウイフルーツをゼスプリ・グリーンキウイへと商標変更しました。キウイフルーツ産業をブランディング、マーケティング、品質等を重要視する、グローバル・ビジネスへと展開する基盤を整えました。 2000年ゼスプリ・インターナショナルを法人化し、また、ゼスプリ・ゴールドキウイが本格的に発売になりました。さらに、ゼスプリ・ゴールドキウイの北半球での産地作りをすすめ、1年間を通じてゼスプリブランドのキウイフルーツを市場に届けることを目的として、ニュージーランド以外での契約栽培を始めました。 2003年日本で初めて国産のゼスプリ・ゴールドキウイ(愛媛産)が収穫され、市場へ出荷されました。 2004年ニュージーランドのキウイフルーツ業界が100周年を迎えました。 2006年日本事務所が日本法人となり、ゼスプリ インターナショナル ジャパン株式会社に社名変更。佐賀産のゼスプリ・ゴールドキウイが収穫され、市場へ出荷されました。 2012年次世代品種ゼスプリ・サンゴールドキウイ、ゼスプリ・スウィート・グリーンキウイが販売開始となる。
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